【ヒストリー】64年前の今日、大山倍達が猛牛に勝利、対決中の悔し涙にも最強への執念を見る
極真空手の創始者である大山倍達氏(70歳没)が1956年(昭和31年)11月11日の1並びの日に、33歳の大山氏が東京・田園コロシアムにて猛牛と対戦してから今日で64年が経つ。”牛殺し大山”の異名をとった、そんな格闘技の歴史的1ページを振り返ってみたい。
大山氏は戦前より空手を学び、昭和22年の空手競技大会で優勝、昭和27年に柔道の遠藤幸吉とともに渡米しグレート東郷の東郷ブラザーズの一員として空手のデモンストレーションやプロレス、時には真剣勝負マッチも行ってきた。当時の海外の新聞ではルールは定かでは無いが「柔術マッチで勝利」という記事も存在する。その後、昭和29年に千葉で牛と対決し角を折り勝利、そしてその2年後に田園調布でも「空手家vs猛牛」は行われたのだった。主催は日本空手普及協会で大山氏が当時所属した剛柔流をはじめとした空手流派、日本拳法空手道などが協力した。TBSテレビ(当時KRテレビ)では夜7時から生中継された。牛は150貫=562kgある猛牛”雷電号”だ。
『大山倍達神話』(07年5月発行・福昌堂)には、当時の専門誌「プロレス&ボクシング」の記事を抜粋し紹介している。
記事には前座として「足を使うタイ式ボクシングそっくりのファイトが行われた」とあるが、実際に前座では玄制流空手の創始者・祝嶺正献が演武を行い、日本拳法がグローブをつけ組手が行われたようだ。
そして牛との試合部分については。
「牛の正面入り口に両の手をあげて待ち構える大山の気迫はスタンドの観客に手に汗を握らせ唾を飲み込ませる。牛も一瞬この闘志に押されたのか、入り口で立ち止まった。
ジーッと見つめる大山。動かぬ牛。大山が進んで出る。サッと身体を横に開いて、2つの手が巨大な牛の2つの角を捉えた。渾身の力、金剛力をふり絞って首をねじる。牛はこらえて振り切ろうとするが、離したら最後と、大山はグッとねじまげる力を加えた。牛はたまらずドゥーッと倒れた。ねじ切らんばかりの大山の力に、さしもの巨牛ももう全く動けない。
マイクが「これ以上しめると、牛が絶命しますので中止します」と叫ぶ。拳で角を叩き折ろうとする大山は無念の涙。立ち上がった牛に、さればと大山は再度手をかける。牛はただこらえようとするだけだが、自由を失ってまたもドゥッと横転、首をねじ上げる大山の怪力に力尽きて動けなくなった。大山の勝利、牛はなすところもなく破れた」
※この引用記事には無いが、牛との試合タイムは9分50秒と当時の新聞各社が報じている。
そして大山は勝負の後の控室で強さへの追求の姿勢を語っている
「(牛との戦いをどのような考えからやろうとしたのか、という質問を受け)空手は一拳必殺だ。人間を相手にやることはできない。それで、人間より体重のある牛を選んだのだ。いわば私の能力の限界ー鍛錬した力が、どこまであるかということを知りたいのだし、世人に知ってもらいたいのだ。100貫の牛から150貫の牛に。それを征服したらさらに上にと、私は私の限界をさらに伸ばすことが念願なのだ。世間は私のことを奇人というかもしれない。しかし大体こんなことをするのに、まともな考えではとてもできないよ。命をかけての真剣勝負だからね。まかり間違えば一たまりもなく命を失ってしまうのだから……」
この最強を求める姿勢が直接打撃制の極真空手を産み出し世界に普及させたのだろう。普及した極真のルールを超え、強さを求めた世界の弟子がその他空手やキック、総合格闘技のジムを開設している。33歳・大山の強さへのあくなき探究心、そして試合中に牛を締め上げる前に止められたときの悔し涙こそ最強を求めた男の姿なのだろう。
(text:Takuji Yoshikura)
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