【コラム】半身麻痺と戦う空手家・元極真王者の桑島靖寛が「伝えたい何か」
極真会館の第20回全日本選手権で優勝、世界選手権にも出場した桑島靖寛。現在は一般社団法人 国際空手道連盟 極真会館の香川県本部桑島道場の代表として後進の指導にあたっているが、5年前に脳出血で倒れ右半身が麻痺状態となってしまった。それでも、今年8月に開催された香川県空手道選手権の舞台に立った桑島は、30枚の板を連続して割る演武を行った。師範として「何かを伝えたい」、桑島靖寛の生き様とは。(文・阪田徹)
■夏場に道場を締め切って、ストーブを炊いて稽古をしていた
「大山総裁から香川支部を出してみないかとお声がけをいただいたんだ…どう思う?」
桑島靖寛からそう聞いたのは1987年の第4回世界大会の終了後である。場所は当時、彼が住んでいたひのき荘という風呂無しの木造アパートだったと記憶する。出身地である香川県に支部を構える新しい未来と、古巣である極真会館京都支部への愛着、師である川畑幸一師範への想いの間で悩んでいるようにみえた。
「先輩の気持ちに従順でいいのではないですか?」
そう答えながらもこの人は支部長になるであろう、いや、なるべき人だとぼんやり思ったことを覚えている。
翌年1988年に香川支部を開設、そして、全日本大会優勝。昭和最後の全日本チャンピオンとなった。その時のトロフィーは触れられることなく、現在、桑島道場の本部に置かれている。そのまま置いているのは「大山総裁の指紋がついているから」
翌1989年の全日本大会は3位入賞。増田章との3位決定戦はこれぞ極真精神を体現した試合であった。優勝の可能性を断たれ、満身創痍の2人がそれでも諦めることなく肉体と精神を削り合ったギリギリの一戦で、両者へ畏怖を感じた試合であった。
1990年代に入ると桑島は選手の育成に全精力をそそぐ。
91年には支部開設以来、初の黒帯が誕生。香川支部を開設してから3年2ヶ月後のことであった。92年には岩田宏平が全四国大会優勝、以降95年まで桑島道場は4連覇することになる。
印象に残るのは1993年に行われた第25回全日本大会の1回戦。桑島道場から出場した小野茂樹はあの八巻建弐と1回戦で対戦。真っ向勝負し、そして粘った。刮目すべきは延長2回目、八巻の強烈な右の下段に技ありをとられたあとの試合ぶりだ。諦めることなく、真っ向から突きを返し、そして後ろ廻し蹴りの一発を最後まで狙った。
この粘りはどんな稽古を積んだのだろう? 観戦しながら桑島道場の激しい稽古を想像した。
本記事を書くにあたり、桑島道場の職員で師範代を務める松本薫樹氏に取材をさせていただいた。正確な時期は失念したともいうが、夏場に道場を締め切って、ストーブを炊いて稽古をしていた時期があるという。いまの時代であればいろいろな意味で問題になりそうな話でもあるが、夏に道場を締め切り、ストーブを炊くという発想自体が極真である。大山総裁がバーベルを持ち上がらないときに針金で尻を突かせたという話と重なる感性である。
2000年代に入ると桑島は相変わらず道場の稽古の先頭に立ち、行事、他の道場との交流などを活性化させていく。
極真空手の全日本王者という実績に加えて、桑島には指導者としての類いまれなる資質がある。空手に限らず指導者としての資質とはいったい何だろうか? 言うまでもなく指導者にはいろいろなスタイルがあり、違いがあるだけである。
しかし、どのようなスタイルをとるにせよ、絶対に必要なことはある。特に極真の世界では。極真の師範は空手のコーチではないはずである。
指導者に必要なこと、それは「伝えたい何かがある」ことだ。その点、桑島には伝えずにはいられない何かがあった。
道場では時に感情をむき出し、檄を飛ばす。稽古の後は弟子を引き連れて大いに飲み、食べ、語り、唄う。弟子の勝利に涙し、わがことのように歓喜する。師範という言葉から連想されがちな高潔な人物像とはニュアンスの違う、人間的で生々しいキャラクターの持ち主でもある。
伝えたい何かをカタチを変えて伝えよう。桑島が音楽活動を始めたのはこの時期だ。当時日本テレビのゴールデンタイムで放送されていた「誰も知らない泣ける歌」という番組に出演したこともある。
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